代表 橋爪あきの睡眠障害克服記
私、橋爪あきが睡眠教育を始めようと思った理由は?
そもそも自分が睡眠障害者だった!
著書にもある通り、私は10代から睡眠障害者でした。不幸にも私が障害に気づいたのは、発症してから何と40年も後のことでした。
40年?!その理由は…
私が10代のころは、日本全体(医療関係者も含め)が睡眠についての知識を持っていなかったからです。
*以下、長くなりますが、ぜひ読んでください。
今思えば、私の障害は睡眠相後退症候群(夜型が社会生活に支障をきたす)でした。中学生の頃から、夜更かしが進行し、学校生活に支障をきたしました。PCもスマホもなく、親や教師の力が絶大だった当時、不登校児は多くはいませんでした。私も何とか登校していましたが、午後は極度の眠気から「帰宅組」に。青春時代のクラブ活動こそ社会での人間関係を築く第一段階。そして人生で一番懐かしく思い出される珠のような日々なのに、私の青春時代は、ほぼブランクなのです。
睡眠相後退症候群では、夜も深まってからヤル気がモリモリでてきます。当時は漫画家になるのが夢で、夜毎ペンを走らせ、就寝は午前3時ごろ。7時には起きて、満員電車で登校。朝から眠気と疲れで、だるくて頭はボンヤリ、体はだるい。かばんが重いのが文字通り重荷。それでお弁当は持たずに行きます。昼食は購買の菓子パン。ノートも重いので持たず、教科書の余白に板書を書き込んでいたら、職員室に呼び出しをくらったことも。もちろん運動なんてとんでもない。体育の時間はいいかげんに済まして、注意を受けること再三でした。
最も深刻だったのは、学生達と楽しく過ごすことができなかったこと。そうしたいのは山々ですが、睡眠不足が気持ちのイライラやネガテイヴ思考を招いてしまう。何とか、仮面をかぶっていますが、その分ストレスは過大になります。そんな生活から、慢性胃炎と過敏性大腸・低体温状態が日常化していました。
医療が遅れていたあの頃
今や、ストレスがあらゆる病気の元凶になりうることは常識になりましたが、睡眠不調もそうであることが医療の面で言われ始めたのは21世紀に入ってからです。結婚して、家事・育児・仕事と多忙を極めた私にとって、最もつらかったのは40代でした。様々な体調不良が自分の睡眠と関係していることは知る由もなく、医師を訪れても、正しい判断を下せる人はいませんでした。(現在でも、睡眠不足からくるうつ状態をうつ病と確定されてしまうケースもあります)私は、つとめて周囲には明るく振舞いつつも、自分を基本的にネクラで、やる気のない、持病を抱えた人間だと思い込んでいました。
こんな人生は、もう御免!
50代に入ってから、さすがに人生について考えることが多くなりました。
周囲の人はみな、生き生きと働いているのに、私だけは眠気と体調不良を友達にして生きている。そのパフォーマンスの低さと言ったら・・・。「こんな人生を続けていくなんて、もう御免!」そう思った時、ふと書店で睡眠の本に出会いました。それが私が眠育をめざすきっかけとなったのです。
本を読み進めるうち、「睡眠の知識を持つことがこんなに大切なのに、日本人は睡眠について何も知らない。睡眠事情が世界最悪であるのに、何の改善もなされていない!」そう感じて、自分の睡眠改善もさながら、睡眠教育を行わなくてはという思いが募ったのです。そして、睡眠改善インストラクターの資格を取得。長らく試験などと無縁になっていたし、睡眠学会理事の先生方の理系に傾いた講義を聴くのは、しんどいところもありました。しかし、ただただ思いに駆られて、眠育の道を歩み始めました。
晴れてインストライクターとして
初めは友人の助けを得て、小さいセミナーから始め、現在は協会を設立して、普及活動に邁進するようになりました。広報活動の一端には、睡眠文化からの取り組みとして、様々な分野の人とコラボイベントも行なっています。こうした取り組みは、楽しみながら睡眠を学ぶ良い機会を提供できると思っています。
現在は、公共機関、今後は更にコラボ分野を広げていく予定です。学校からの講演のオファー、また健康関連の団体からのセミナー要請に忙しく駆け回っています。
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